2013年4月27日土曜日
代々継承した伝承と名乗り
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
165~166頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《代々継承した伝承と名乗り》
「代々継承した伝承と名乗り」
これで、スサノオというのは一人の神の個人名だと思い込んでいた、
これまでの考えは問違っていて、それは神ではない王族の名乗りであって、
複数の人が現実に名乗って使っていたものだったことが、完全にわかった。
それは卑弥呼の死の前後には、我が国を代表する人物の名乗りだったが、
壹與が海を渡って連れてきた八幡が、その八坂入彦でなかったのは確かである。
八幡は幼児だったのに、
八坂王は中国の首都まで二度も往復した率善中郎将の壮者だったからである。
だから二人の間で名乗りの引継ぎがあったことは常識である。
すると応神天皇が「名替え」ということをしたという記録が、
真実だったことが保証され、
八坂王が引退して若い八幡様すなわち応神天皇が即位したことが確認できる。
『古事記』には
「スサノオが大人になっても泣きいさちった。
その有様は青々とした山も枯れ果て、
河も海も水が枯れて乾上がってしまうほどだったので、
イザナギノミコトが、なぜそんなに泣くのかと訊ねると、
『僕はお母さんのいる根の国に行きたいので泣くのです』
と答えた」とある。
卑弥呼が死んだ3世紀の史実が、
北欧の隅々にまで伝わっている事実をみても、
八幡の都、大隅の文化は、当時の世界では巨大なものだったのである。
また北方騎馬民族と呼ばれている人たちの中でも、
強大を誇った烏孫人(ウースン)という人々があるが、
大隅と書いても大隅人はウースンと発音する。
だから北方騎馬民族が海外からやって来たのなら、海外の名がつく。
ウースン人はこちらから出掛けて行ったから
「大隅人・ウースン人」と自称し、
中国人はウースン人と呼んだ。
これを逆に考えて、北方騎馬民族がやって来て古墳時代が始まった、
という学者がいたが、その人たちの残した埴輪は山高帽をかぶり、
みずら髪を垂らした、今でもイスラエルで日常見る風俗の、
ユダヤ人そっくりの像である。
しかし卑弥呼の大冢を古墳だと決めて、
古墳時代が始まったとされている卑弥呼時代の
『魏書倭人章』に書かれた風俗は、
山高帽も、みずらもなく、横幅衣や貫頭衣という、埴輪の衣服とも、
ユダヤの衣服ともまるで違う服装をスケッチしている。
北方騎馬民族がやって来て、それが天皇家になったという説は、
この大隅とウースンの歴史からみて、
正反対で、
天皇家は3~4世紀にならないとできないことになる。
これでは1世紀に中国を訪れた
スサノオ=帥升は天皇家の先祖ではなくなってしまう。
大隅出身だからウースン人と呼ばれたのであって、
その逆なら大隅は[烏孫」と書かれるようになったはずである。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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