2013年4月16日火曜日
唐代の小国日本は鹿児島県以外にない
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
146
「6章 鹿児島に天皇家を生んだギリシャ文明」
《唐代の小国日本は鹿児島県以外にない》
「唐代の小国日本は鹿児島県以外にない」
史料の読み方には言葉以外にも重要な手掛かりや証拠になる記録があり、
それを見落とさないように、最新の注意がいる。
中国の唐の前半の歴史を書いた『旧唐書』の中に、
我が国について書いた部分があるが、
そこには「倭国」のほかに「日本国」があると書き、
「倭は東西の長さが五か月歩く距離。南北は三か月歩く距離」と、
国の大きさが書いてある。
縦が三、横が五の長方形である。
これに対して「日本国」は「小国」で
「東西南北。各、数千里。西と南は大海、
東と北は大山が国境になっている」というから、
こちらはほぼ正方形なのだ。
この西と南は大海というのは、
日本列島の中で一か所しかない。
それは鹿児島県である。
この県は東と北は確かに山が行く手をさえぎっている。
だから日本国は鹿児島県だったと、はっきり決定して間違いない。
それより大きくて横長の矩形をしているのは、
日本列島中で四国だけである。
その東西と南北の比率も、ほぼ五対三になっている。
こちらも四国だったと決定して間違いない。
もうおわかりのように、言葉以外のもの、
ここでは国の形や、大きさを表現する距離が、
手掛かりと証拠になって、唐の人々の、
その時代の我が国に対する知識がわかり、
それを借りて我が国の政治情勢が、従来、私たちが考えていたような、
大和朝廷による独裁的な一カ国ではなく、
四国と鹿児島とのほかにも、
沢山な国々があったことも見えてくる。
この『旧唐書』には学問僧・空海が唐に渡ったことも書かれているから、
倭国と日本国とが併合して「日本」になったのが、
それより余り古いことでもない、ということもわかる。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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