2013年4月30日火曜日
世界に誇れる真の人間になって!
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
169~170頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《世界に誇れる真の人間になって!》
「世界に誇れる真の人間になって!」
八幡の歴史は一人の人間が書き残したものではなく、
それに「好字」命令まであって、
名前が様々に異なっている。
しかし今では一つの事件だと確認できている。
だから大隅正八幡宮が、
邪馬責国の所在を立証する動かぬ証拠なのである。
「邪馬台国の女王・卑弥呼」などという妄想や、
実在しない奈良大和の邪馬台国などを、
完全に消し去ったことも、
よく心に止めておいていただきたい。
それこそが、この地域が嶋津家を育て、
篤姫を生んだのだからである。
もっともそれは3~4世紀の都で、
現在ある神宮の形の正八幡宮を建てたのは、
後世の淳仁天皇であって、
天平宝字二年(758年)の造営と記録されている。
あの[万葉集]ができた頃のことである。
けれども淳仁天皇の、こうした考えが、
彼を天皇にした先帝孝謙女帝に嫌われて、
政争の犠牲になって淡路島に流され、
淡路廃帝として悲劇の最期をとげた。
八幡には後世まで、計り知れない力と謎があり、
静御前
(淡路島の今の私の家のすぐ側に墓があり、
地元では静の名は「志築(しづき)」という地名への当て字としている)
が頼朝と義経兄弟の板挟みになって苦しんだ悲劇もまた、
鶴ケ岡八幡宮が最も印象的な舞台である。
教養は突然できるものではない。
永い思索の結果の積み重ねが、
次々に伝えられて様々に役立ち、
現在の世界文明が築き上げられた。
篤姫も『大日本史』などの史書を大量に愛読して
あの思想と人格を築き上げた。
ドラマでは時間に制約されて、その片鱗しか描けない。
私はそれを惜しんで、この機会を大切にして、
皆さんが上辺だけでない深い教養をお持ちの、
世界に誇れる真の人間になっていただきたいと願ってこれを書いている。
真実の日本人はこれまで世界の人が想っていたような最涯の蛮人や、
篤姫当時の将軍家程度の存在ではない。
もっと人類に貢献できる位置にいる。
それを深くご認識になって、
現代の「世界の斉彬・篤姫」になっていただきたいのである。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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歴史・文献史学
場所:
日本
2013年4月29日月曜日
卑弥呼らが残した歴史書はどうなったか?
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録23:3頁
《卑弥呼らが残した歴史書はどうなったか?》
「卑弥呼らが残した歴史書はどうなったか?」
卑弥呼の鬼道の正体が仏教だったことが、完全にわかり、
彼女がソナカ夫人だったことが真実だったとわかると、
『日本書紀』に収録されている
ソナカの記録=足仲(ソナカ)彦・仲哀天皇と
息長(ソナカ)帯姫・神功皇后の伝記と、
蘇那曷(ソナカ)叱智と
その別名で書かれた記事と『天の稚彦物語』が、
『魏書倭人章』以外の文献に記録された
「卑弥呼の歴史」として復元できることになる。
それらの記事は何に基づいて書かれたものなのか?。
在来の歴史家は『古事記』の序文に書かれた
『帝記・旧辞』の名を口にするだけで、
鬼道の実体も
卑弥呼の首都国がパーリ国=巴利国だったことも全然知らず、
具体的な事実はまるでなに一つわからず、
考えたことすらなかったが、
私たちは
卑弥呼たちがパーリ語に精通していたことまで全て発見ずみである。
卑弥呼は自分のパーリ語名に対して漢字で
「卑弥呼」と当て字して署名することもできた。
漢字が書けたことはわかっているが、
その署名の漢字は、
魏の皇帝あての手統だから漢字で書いたのであって、
ふだんメモしたり、
自分たちのあいだで取り交わしたり、
記録に残したりするものまで漢字で書いたとは思えない。
後世に『記・紀』が漢文体に翻訳した彼女たちの歴史の原典は、
どんな言葉や文字で書き残していたのか、
それを見つけ出せれば
『記・紀』以前の『史書』が発見できたことになる。
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3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
167頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識》
「3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識」
掖邪拘(ヤザカウ)は卑弥呼が魏の皇帝から贈られた贈物の返礼に、
伊声耆(イサンギ)=イサナギと一緒に、
正始四年、
魏に行って卑弥呼からの贈物を届け、
率善中郎将という位を受け、
卑弥呼の死後の大乱が収まった後、
今度は壹與の大使として、
帯方郡使・張政を送りがてら、
また魏の都まで足をのばして皇帝に献上品を届けている。
『魏書倭人章』はそこまでで終わっている。
八坂はヤバンと読める。
八幡もまたヤバンと読める。
誰もが八幡をハチマンと読むが、
この二つは同一の名乗りに対する当て字の違いで、
当時の人はヤバーナを野蛮人扱いする中国人を意識して、
八幡を八坂と当て字を変え、
その発音も「ヤザカ」と訓読していたのである。
古代日本人が八幡を読み替えたのは、
これだけではないから、以上は考え過ぎではない。
その証拠として八幡がどんなに多くの名詞に変化したかを、
次に一覧表にしよう。
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2013年4月28日日曜日
3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
167頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識》
「3世紀に八幡を八坂と読み替えていた漢字知識」
掖邪拘(ヤザカウ)は卑弥呼が魏の皇帝から贈られた贈物の返礼に、
伊声耆(イサンギ)=イサナギと一緒に、
正始四年、
魏に行って卑弥呼からの贈物を届け、
率善中郎将という位を受け、
卑弥呼の死後の大乱が収まった後、
今度は壹與の大使として、
帯方郡使・張政を送りがてら、
また魏の都まで足をのばして皇帝に献上品を届けている。
『魏書倭人章』はそこまでで終わっている。
八坂はヤバンと読める。
八幡もまたヤバンと読める。
誰もが八幡をハチマンと読むが、
この二つは同一の名乗りに対する当て字の違いで、
当時の人はヤバーナを野蛮人扱いする中国人を意識して、
八幡を八坂と当て字を変え、
その発音も「ヤザカ」と訓読していたのである。
古代日本人が八幡を読み替えたのは、
これだけではないから、以上は考え過ぎではない。
その証拠として八幡がどんなに多くの名詞に変化したかを、
次に一覧表にしよう。
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2013年4月27日土曜日
代々継承した伝承と名乗り
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
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『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
165~166頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《代々継承した伝承と名乗り》
「代々継承した伝承と名乗り」
これで、スサノオというのは一人の神の個人名だと思い込んでいた、
これまでの考えは問違っていて、それは神ではない王族の名乗りであって、
複数の人が現実に名乗って使っていたものだったことが、完全にわかった。
それは卑弥呼の死の前後には、我が国を代表する人物の名乗りだったが、
壹與が海を渡って連れてきた八幡が、その八坂入彦でなかったのは確かである。
八幡は幼児だったのに、
八坂王は中国の首都まで二度も往復した率善中郎将の壮者だったからである。
だから二人の間で名乗りの引継ぎがあったことは常識である。
すると応神天皇が「名替え」ということをしたという記録が、
真実だったことが保証され、
八坂王が引退して若い八幡様すなわち応神天皇が即位したことが確認できる。
『古事記』には
「スサノオが大人になっても泣きいさちった。
その有様は青々とした山も枯れ果て、
河も海も水が枯れて乾上がってしまうほどだったので、
イザナギノミコトが、なぜそんなに泣くのかと訊ねると、
『僕はお母さんのいる根の国に行きたいので泣くのです』
と答えた」とある。
卑弥呼が死んだ3世紀の史実が、
北欧の隅々にまで伝わっている事実をみても、
八幡の都、大隅の文化は、当時の世界では巨大なものだったのである。
また北方騎馬民族と呼ばれている人たちの中でも、
強大を誇った烏孫人(ウースン)という人々があるが、
大隅と書いても大隅人はウースンと発音する。
だから北方騎馬民族が海外からやって来たのなら、海外の名がつく。
ウースン人はこちらから出掛けて行ったから
「大隅人・ウースン人」と自称し、
中国人はウースン人と呼んだ。
これを逆に考えて、北方騎馬民族がやって来て古墳時代が始まった、
という学者がいたが、その人たちの残した埴輪は山高帽をかぶり、
みずら髪を垂らした、今でもイスラエルで日常見る風俗の、
ユダヤ人そっくりの像である。
しかし卑弥呼の大冢を古墳だと決めて、
古墳時代が始まったとされている卑弥呼時代の
『魏書倭人章』に書かれた風俗は、
山高帽も、みずらもなく、横幅衣や貫頭衣という、埴輪の衣服とも、
ユダヤの衣服ともまるで違う服装をスケッチしている。
北方騎馬民族がやって来て、それが天皇家になったという説は、
この大隅とウースンの歴史からみて、
正反対で、
天皇家は3~4世紀にならないとできないことになる。
これでは1世紀に中国を訪れた
スサノオ=帥升は天皇家の先祖ではなくなってしまう。
大隅出身だからウースン人と呼ばれたのであって、
その逆なら大隅は[烏孫」と書かれるようになったはずである。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
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スサノオは歴代の漢魏書に登場する
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
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163~164頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《スサノオは歴代の漢魏書に登場する》
「スサノオは歴代の漢魏書に登場する」
これは我が国の古代史上、非常に重大な問題なので、
もっと詳しくお話しよう。
『魏書倭人章』の書く、卑弥呼らのいた三国時代より
前の後漢時代の倭人のことも書いてある『後漢書』には、
後漢・安帝の永初元年(107)に首都洛陽を訪れた
倭国王[帥升」が貢ぎ物をしたと、その品々が書いてある。
この「帥升」は、
当時の漢魏音という発音では、
「スイサヌウ」という発音になる。
これは紛れもなく
「スサノオ」と本人が名乗ったのを
中国人が聴いて書き留めた記録であることは間違いないから、
当時、スサノオという人物が確かに、我が国に実在したのである。
ところが、それから136年後、卑弥呼の時代にも
『魏書倭人章』に、「掖邪拘(ヤザカウ)」という高官がいて、
魏から率善中郎将という高い位をもらっている。
この掖邪拘はヤザカオウが
大隈語でヤザカウと発音するのに対する当て字であるから、
八坂王であって、
崇神天皇の皇子・八坂入彦の命であることは間違いない。
八坂神社の祭神で京都の山鉾巡行の主神だが、
それはスサノオノミコトだと誰でも知っている。
八坂神社が素戔鳴(スサノオ)の尊の神社だというのは
日本人の常識なのだ。
だからこちらの方は
『魏書倭人章』がヤザカウと聞こえた発音を写しただけで、
彼がスサの王の称号をもっていたことまでは知らなかったが、
それは代々の皇族が受け継いで来た
称号の一つになっていたことがわかる。
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2013年4月25日木曜日
大隅は古代日本の中央で皇居のある首都圏
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162~163頁
「7章 超国際人だった古代屋久島人」
《大隅は古代日本の中央で皇居のある首都圏》
「大隅は古代日本の中央で皇居のある首都圏」
でも、役人というのは、政府の役人のことで、
たかが神社のお賓銭集めなどの名だとは思えない、
コジつけだとお思いの方があるかもしれない。
だが八幡様は今、言ったように
応神天皇の「宮城」であり、「政府」だったのである。
そこに働く職員が、役人の始まりだったのは、当然のことなのである。
だから4世紀の応神天皇時代に、
役人という代名詞が存在していたということの方が驚きである。
大隅は、
日本の「最涯ではなく」「中央で皇居のある首都」だった。
それは頼朝の時代には、
現代よりさらに強く意識し崇敬されていた地域だった。
だからこそ頼朝は、愛する忠久にその土地を委ねたのである。
これが理解できれば、八幡領の広大さは不思議ではなく、
また武力で我が国の支配権を手にした頼朝が、
天皇の落胤で自分の子である忠久を、
当時の我が国南端の最涯の地に、
なぜ送り込んだのか、その理由が明瞭にわかる。
それでこそ嶋津氏とは何だったか?
嶋津之庄とは何だったか?
が、本当に理解できたのである。
縄文時代にスサの王が移植した屋久杉について、
念のためにつけ加えると、邪馬国は上屋久町で屋久島北部。
狗奴国=久の国は南部の屋久町で、
屋久杉は超古代のスサ(今はイランの都市)の王スサノオが、
はるばる船で運んで来て植えたレバノン杉である。
『日本書紀』には、
八岐大蛇退治の後の「一書」に
「浮き宝がないのはいけない」と言って、
杉と楠とを植えた、と書いてある。
その移植の時代は、
古代シリヤにあったフェニキヤ=船木国(きや)が大船を使って、
造船用のレバノン杉を世界に運んで売り歩くのを主体に、
貿易で栄えていた時代である。
だからスサノオノミコトという神名は、
「スサの王」という名乗りで、
決して個人名ではなく肩書きである。
その証拠にはるか後世の『新漢書』にも
「帥升・スイサヌウ」と名乗る倭の国王が、
漢の都に来たと記録されている。
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