2013年3月6日水曜日
嶋津之庄が巨大荘園になった理由
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
76~77頁
「4章 邪馬壹国の守護が嶋津家の任務」
《嶋津之庄が巨大荘園になった理由》
「嶋津之庄が巨大荘園になった理由」
嶋津之庄の起源は、
後一条天皇の万寿から長元年間(1024年~1029年)ごろに、
太宰大監の平季基が、弟の平判官良宗と、日向の国の嶋津之庄に来て、
所有者不明の荒野を開拓、
当時『宇治殿』と呼ばれていた都の勢力者、
近衛家・藤原頼通に献上したのがはじめだという。
そのため嶋津之庄は藤原氏の領地だったのである。
これが我が家の系図にある『藤原氏』であって、
この土地の領有者であることを表現したものだったのである。
これほどに扱われた大きい荘園が、
“庄”でイメージするような小さな寒村だったはずがない。
当時の『三国名勝図会』には、こう書いてある。
「荘園は税が安く、国に税を貢がなくてもいいので、
人民は国の貸す公田を借りないで、
みんな近衛氏の荘園を耕すことを希望して荒れ地を借りた。
だから歳月を経ると耕地は増え、その境界は拡がり、
益々大きくなって、その所有する荘園は、
薩摩、大隅、日向の三州に一杯になった。
この三州の荘園は、
すべて皆、嶋津荘の衙(ぐあ)=事務所が管轄している。
そのため近衛氏の荘園は四方に散らばっていても、
そのすべてを皆『嶋津之荘』というのだ」
ではそれはどれくらいの大きさがあったのだろう?
忠久が嶋津之庄を治めていた当時、
源頼朝が送って来た自署入りの布告状も伝わっている。
「嶋津御庄に下す。
すみやかに命令して濫行をやめさせよ。
地頭惟宗忠久の下知に従い、庄民の安堵を急げ。
年貢以下、沙汰を致せ(報告せよ)。
右、諸国諸民。地頭、成敗の条は鎌倉進止也。
乃わち件の職は、
かの忠久をして補任を畢えさせた。
而今、殿下が相替えしめ給うに依り、領家の定め無し。
忠久地頭之職に至る、全く相違あるべからず、
しかと土民を安堵させ、怠りあるべからず。
(中略)忠久に違背するべからず。
沙汰の状、くだんのごとし。
文治二年四月三日 頼朝花押」
しかし
「命を狙う北条政子がいても、
何も我が国の最果てまで逃げなくてもよかったのではないか?」
とお考えの方も多いと思う。
だが[篤姫]の物語の最大の真のテーマは、
眼もくらむような権力の座と、
豪華な御殿と華やかな衣装に隠されていた最も醜悪な部分、
骨肉あい喰む権力争奪の凄惨さである。
嶋津家ではそれが、この忠久以前から始まっていたのだ。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
《参考》
世界史年表・地図
日本史年表・地図
古代史年表・地図
オリエント史年表・地図
メソポタミア史年表・地図
大シリア史年表・地図
小アジア史年表・地図
ペルシア史年表・地図
イラン史年表・地図
インド史年表・地図
西アジア史年表・地図
"南アジア史年表・地図
中央アジア史年表・地図
北アジア史年表・地図
東南アジア史年表・地図
東アジア史年表・地図
中国史年表・地図
朝鮮史年表・地図
ヨーロッパ史年表・地図
ギリシア史年表・地図
エーゲ海史年表・地図
エジプト史年表・地図
北アフリカ史年表・地図
考古学ニュース
装飾古墳
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿