2013年2月9日土曜日
くるくる変わった西郷の名
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
23~24頁
「プロローグ―篤姫を生んだ古代超巨大文明」
《くるくる変わった西郷の名》
「くるくる変わった西郷の名」
別の部分でも、
篤姫が西郷の名を知ったのは夫将軍の死後、
井伊大老が起こした安政の大獄の時で、
勤皇僧の月照が幕府の役人に追われて薩摩まで逃げてきたのを、
旧知の西郷が助けようと、藩の上司らに嘆願した。
しかし藩の態度はひどく冷たく、
西郷は月照に対し、援助の任を果せなかったお詫びに、
一緒に死のうとして、鹿児島湾へ投身自殺を図った。
「恐ろしい知らせばかり届くなかでさらに篤姫が驚かされたのが、
この入水であった」とも書いてある。
しかし、大河ドラマ[篤姫]では、
西郷は吉之助で吉兵衛ではない。
だから「どちらが本当か?」とよく訊かれる。
この答は、西郷は隆盛という名で死んだが、幾度も名を変えている。
若いときは吉之助だったが、
斉彬が中小姓に昇任したときに、吉兵衛に改名した。
誰も間違ってはいず、正確だが、
幕末の活動は機密が必要で、
多くの人が本名を隠して、仮名を次冷に使っている。
英国人のサトーの手記にも、
西郷に最初に会ったときは嶋津左中と名乗ったのに、
次に会ったときには西郷隆盛と名が変わっていた、と書かれている。
また当時は、父の名を継ぐ襲名の習慣もあり、
父の吉兵衛は、嶋津家の家臣・赤山靭負(ゆきえ)の家来で、
その息子・吉之助は、わずか年二石(こく)の給与で
郡方(こおりかた)書記役という仕事をしていた。
ところが斉彬が嘉永四年に藩主になって最初の帰国をした際、
役に立ちそうな青年たちを選んで小姓にし、江戸へ連れて行った。
その一人が吉之助で、彼はそのとき28歳、
その役名は「中小姓」だった。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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