2013年2月12日火曜日
「西南戦争」は戦争ではなかった
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
29~30頁
「プロローグ―篤姫を生んだ古代超巨大文明」
《「西南戦争」は戦争ではなかった》
「「西南戦争」は戦争ではなかった」
のちに西郷は、明治天皇にも親しく斉彬の遠謀をお話申し上げた。
陛下がうっかりしたとを仰せになると、
ご遠慮なく御たしなめ申しあげたと語り継がれている。
明治天皇は斉彬の教養と理想には、絶大な敬意をお持ちだった。
だから西南戦争の直前、
西郷は陛下に直接お話申し上げるつもりで東京行きを決めた。
それは、そのとき同席した私の祖父・龍太郎が、
ありのままを周囲に話していたので、よく知られている。
だが、西郷の復活を恐れた政敵は、
それを絶好のチャンスとして悪用し、
薩摩の不平士族の反乱だというデマを捏造して口実に使い、
一気に叩き潰そうと軍隊で西郷を遮った。
政敵の罵に落ち、思いもかけぬ謀反人の汚名を着せられ、
血気盛んな西郷私学校の生徒たちは、
想像もしなかった戦闘を余儀なくされて、
興奮して同志を呼び集めて応戦した。
傍観していた熊本県人まで激怒して救援に加わったので、
争いは一気に拡大して、事態を一挙に悪化させ、
西郷を思いもかけなかった死に追いやってしまったのである。
それは戦争と呼べるようなものではなかった。
政敵が自己が有利になるように捏造したウソの歴史なのである。
明治天皇もそれをよくご存知で、やがて逆賊の汚名は消され、
西郷夫人たちの生存中に、上野の西郷隆盛像が建立された。
勝った政敵の銅像は上野にはない。
それがお話したことの正しさを、強く立証している。
幕末から明治にかけて我が国の国際化に非常に貢献した、
東京帝国大学教授のグリフィス博士は、
その著書の中に次のように書いている。
「西郷が自決して政府軍が東京に凱旋してきたので、
見物に行ったところ、将兵全員が、涙を流しながら行進している、
という想像もしなかった光景に驚いた。
敵の大将を討ち取って大勝利をおさめての行進だから、
『万歳!万歳!』 という歓声が観衆からもあがると想像していたのに、
シンとして、勝利軍どころか、敗戦軍でも見せない泣き顔で、
溢れる涙に濡れた軍人が、帰ってきたのである。
あとでわかったのだが、
万歳を唱えるなというのは明治天皇のお達しがあったからだ」
博士はまた、明治天皇ご遷都以来、
めでたいときには必ず各戸に日の丸の旗を掲げるようになり、
今回の政府軍の勝利の凱旋を迎える日にも
必ず旗を出すようにという達しが役所から出されていたのに、
その日、
凱旋軍を迎えるのに国旗を掲げた家は一軒もなかったと聞いて、
このように書いている。
「それは江戸城明け渡しのとき、
戦火が避けられて市民が無事で被害がなかったのは
勝海舟の説得を西郷がよく受け入れてくれたお陰だと皆、感謝していた。
その西郷が討ち取られたという凱旋を喜んでは、江戸っ子の恥だと、
市民が同じ気持ちでいたからで、
凱旋を遠くから見る人達の眼にも涙が光っていた」
西郷の実像はこんなふうに生々しく記録されて残っているのに、
そんなことはいつか忘れ去られて、
勝手な想像説ばかり増えていくのは情けない。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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