2013年2月25日月曜日

嶋津斉彬は三十九代目が正しく、二十七代目は誤り



 出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
    スメル八千年帝国の理想郷だった
   『言語復原史学会:加治木義博』
    KKロングセラーズ
    55~57頁

 「3章 嶋津家の家系と施政哲学

 《嶋津斉彬は三十九代目が正しく、二十七代目は誤り
 「嶋津斉彬は三十九代目が正しく、二十七代目は誤り


 その系図によると斉彬は三十九代目になっており、

 市販の文献に掲載されている系図の二十七代目は誤りであるから、

 本書によって訂正しておいていただきたい。

 煩雑なので、ここでは名前だけ挙げておく。

 一  忠久

 二  忠時 

 三  久経

 四  忠宗

 五  貞久

 六  忠氏

 七  宗久

 八  師久

 九  氏久

 十  忠直

 十一 氏義

 十二 久親

 十三 直久

 十四 久義

 十五 忠勝

 十六 忠次

 十七 政久

 十八 元久

 十九 久豊

 二十 忠国

 二一 立久

 二二 忠昌

 二三 忠治  

 二四 忠隆

 二五 勝久

 二六 貴久

 二七 義久

 二八 義弘

 二九 家久

 三十 光久

 三一 綱貴

 三二 吉貴

 三三 継豊

 三四 宗信

 三五 重年

 三六 重豪

 三七 斉宣

 三八 斉興

 三九 斉彬

 四十 忠義

 四一 忠重

 四二 忠秀

 また本によっては斉彬を「第十一代藩主」と書く。

 これは嶋津藩を徳川幕府の臣と見て、

 家康時代の藩主を初代と考えた結果だろうが、

 これでは嶋津家は、

 それ以前は「君主」ではなかったという誤った印象しか与えず、

 予備知識のない学生や、外国人には誤解が定着しかねない。

 嶋津家は忠久以来、不変の君主だったのであって、

 徳川幕府発生前は関ケ原の合戦で敵味方に分かれていたように、

 君主としては対等であり、

 関ケ原以後は、講和して外様大名とされたものの、

 徳川は所替えも減石もできず、嶋津は戦前のまま旧領を保ち続けている。

 「写真」嶋津家正統系図=藤原氏和泉系図


 《スメル(シュメール)文明
 「スメル(シュメール)文明

 《パーリ語辞典
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