2013年6月4日火曜日
尾を引いた内紛を断ち切った嶋津備後
出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
スメル八千年帝国の理想郷だった
『言語復原史学会:加治木義博』
KKロングセラーズ
237~238頁
「12章 官軍の初代総裁・嶋津備後のお守り」
《尾を引いた内紛を断ち切った嶋津備後》
「尾を引いた内紛を断ち切った嶋津備後」
虎寿丸はその後、祖母に当る弥(いや)姫の実家、
鳥取池田家に匿まわれていて、
十六歳のとき迎えに来た西郷と京都へ出たが、
それは長州征伐の総裁になるためで、
小松帯刀の計らいだったのである。
彼は池田家の菩提寺のある今の国府町に多くいて、
東に聳える扇の山(せん)登山を繰り返して、
来るべき日に備えていたが、
その甲斐あって堂々たる体格に成長していて、
少しも若年を感じさせない漂々しい
美事な大将ぶりだったと記録されている。
それがかえって新藩主になった久光の子、
忠義たちの不快を買って以後は冷遇され、
間もなく始まった王政復古の総裁には
和宮の許婚者(いいなずけ)だった有栖川の宮職仁親王が就任し、
以後、虎寿丸、改め備後は
歴史の表面に出る役職にはつけなかった。
だからのちに華族制度が作られ、爵位が与えられたとき、
内示があった爵位が低かったのでプライドが許さず、
辞退して受けず、嶋津姓も捨てて加治木姓を選び、
息子龍太郎を平民の子供の籍に入れて、
新しい生き方を子孫に課したのである。
しかし肉親の記念品は斉彬のように焼却することはせず、
子孫に残した。
それがなければ、こうした事情がわからず、
将来を見失う者が出ると考えたからである。
だから余生は過去を捨てて、
鉄砲を持って好きな山歩きを楽しみながら
自由な余生を過ごした。
そして生まれた男の子に、
虎に勝るようにと、龍太郎という名を付けたのである。
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
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